愚痴の身

愚痴とは三毒の一つ。愚かさと訳される
・よく愚痴を言うというが、それは誰のことか。自分自身。
・涅槃経でアジャセが病気に苦しむ姿は愚痴を持つわが身のことではないか。
・「不断煩悩得涅槃」と『正信念仏偈』に申すが、煩悩持つこの身がこのままで涅槃を得るということは、患い悩む私と気づけという、宗祖親鸞の叫びである。

 『大無量寿経』の「三毒」という言葉に出会うたび、「とんよく、しんに、ぐち」と読み上げてしまう。その中でも「ぐち(愚痴)」は世間ではよく使われている(「愚痴を言う」などというように)
 そんな「ぐち」という言葉を「愚かさ」と理解している。貪る心がやめられず、怒りを抑えることができず、自身の愚かさに気が付くことのない我が身。とどのつまり「貪欲」も「瞋恚」も「愚痴」にまとめることのできるもので、それを抱えているのはほかの誰でもない自分自身。
 それをよく表現しているのは『涅槃経』に登場する阿闍世の姿である。
教行信証』に

  その時に大医、名づけて「耆婆」と曰う。王の所に往至して、白して言さく、

 「大王、安くんぞ眠ることを得んや、不や」と。王、偈をもって答えて言わまく、
  <乃至> 耆婆、我今病重し。正法の王において悪逆害を興ず。

  一切の良医・妙 薬・呪術・善巧瞻病の治することあたわざるところなり。

  何をもってのゆえに。我が父法王、法のごとく国を治む、実に辜なし。横に

  悪逆を加す、魚の陸に処するがごとし。
        (『教行信証』信巻)
と説く時、表現は病気に苦しむ阿闍世の姿ではあるが、その引文を通して親鸞は周りに振り回され、苦しみ煩いもがく「我が身」を自覚していたのではないのか。袈裟衣をかけたとて、欲を持ち、思い通りにならないことにもがき苦しみ、悩む「我が身」を、親鸞は実験してきたのだ。
 ふだんのお勤めに「正信偈」を読誦すると、必ず「不断煩悩得涅槃」という言葉に出会う。煩悩を断つことなく涅槃を得る。でも事実はどうだろうか。煩悩がなくなったらいいのに、とどこかで嘆く自分がいないか。その嘆きは親鸞もそうだったのだろう。そして、煩悩持つこの身を教えてくれたのは一体なんであったか。親鸞はそれを「仏法」と呼び、南無阿弥陀仏という六字のみ名を通して患い悩む我が身に気付け、と、叫んでいはしまいか。

領解の心中

一 「「弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生、みちみちたる」(安心決定鈔)といえること、不審にそうろう」と、福田寺もうしあげられそうろう。仰せに、「仏心の蓮華は、むねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに、いりみつ」(安心決定鈔)ともあり。しかれば、ただ、領解の心中をさしてのことなり」と、仰せそうらいき。ありがたきよし、そうろうなり。

(蓮如上人御一代記聞書9)

 

仏法をどれほど頭で理解、解釈しても

 

この身がうなづくことにはかなわない。

 

この身のうなづきのないものを

 

凡夫と

 

呼ぶのではないか。

ききわけて、え信ぜぬものの

一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔)とそうろうを、え存ぜずそうろうよし、もうしあげ候うところに、仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と、仰せそうらいき。

(『蓮如上人御一代記聞書』8)

 

教えを聞いて、頭ではわかっていてもそれを信じないもの。

 

だれでもない、自分ではないか。

 

南無というは帰命

一 三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、「南無というは帰命、このこころは、御たすけそうらえとたのむなり。この帰命のこころ、やがて発願回向のこころを感ずるなり」と、おおせそうろうなり。

(『蓮如上人御一代記聞書』7)

 

お助けくださいと

素直に言えるか。

 

素直に助けを求めることのできない自分がいる。

 

 

御法嘆

6 一 あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃)より「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとは かならず滅度にいたらしむ」(同)と候う段のこころを御法嘆のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また、「月かげの いたらぬさとは なけれども ながむるひとの こころにぞすむ」とあるうたをひきよせ、御法嘆候う。なかなか、ありがたさ、もうすばかりなくそうろう。上様御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、「夜前の御法嘆、今夜の御法嘆とを、ひきあわせて仰せ候う、ありがたさありがたさ、是非におよばず」と、御掟候いて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことにそうろう。

(蓮如上人御一代記聞書5)

 

「御法嘆(ごほうたん)」という言葉。

「嘆(たん)」は「なげく」ではなく、「褒め称える」こと。

 

法話は、仏法讃歎に尽きる、と先輩住職から教えられた。

その教えに、感動すること。そこに褒め讃えるということはある。だが、教えに、涙を流すほどの感動をいただけているのか。

讃嘆という言葉に、いつも我が身我が心を問われている。

 

 

念称是一ということしらず

「念称是一ということしらず」と、もうしそうろうとき、仰せに、「「おもい、うちにあれば、いろ、ほかにあらわるる」とあり。されば、信をえたる体はすなわち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口もこころもひとつなり。

蓮如上人御一代記聞書5)

 

念とは「おもう」こと。称とは「口に出す」こと。それは2つのことでない、ただ一つのこと。

 

口に出してみることは、その先に何を具現するのか?

その確かめを自己にすることは大事なこと。

忘れられないことなのだ。

順讃おわすれあり

御つとめのとき、順讃御わすれあり。南殿へ御かえりありて、仰せに、「聖人御すすめの和讃、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたり」と、仰せそうらいき。「ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなし」と、御述懐なり。

(『蓮如上人御一代記聞書』4)

 

 順讃とはご和讃を順々に読むこと。

浄土真宗のお寺にお参りすると、ご法要で内陣(ご本尊のお出でになるところ)に坊主が荘厳となり、念仏とご和讃(親鸞聖人がおつくりになった和文の歌)が交互に唱えられる。

念仏と和讃の交互の読み合いはきれいなものであり、その響きに浄土の空気を感ずる。

ともすると自分が唱えることさえ忘れていたりする、それくらいの感動をお勤めに感ずることがある。その感動の中申す念仏、それはまた浄土から私への「呼びかけ」と言って可能なのだ。