2018-01-01から1年間の記事一覧

ききわけて、え信ぜぬものの

一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔)とそうろうを、え存ぜずそうろうよし、もうしあげ候うところに、仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と、仰せそうらいき。…

南無というは帰命

一 三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、「南無というは帰命、このこころは、御たすけそうらえとたのむなり。この帰命のこころ、やがて発願回向のこころを感ずるなり」と、おおせそうろうなり。 (『蓮如上人御一代記聞書』7) お助けくださいと 素直に…

御法嘆

6 一 あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃)より「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとは かならず滅度にいたらしむ」(同)と候う段のこころを御法嘆のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、…

念称是一ということしらず

「念称是一ということしらず」と、もうしそうろうとき、仰せに、「「おもい、うちにあれば、いろ、ほかにあらわるる」とあり。されば、信をえたる体はすなわち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口もこころもひとつなり。 (蓮如上人御一代記聞書5) 念とは「…

順讃おわすれあり

御つとめのとき、順讃御わすれあり。南殿へ御かえりありて、仰せに、「聖人御すすめの和讃、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたり」と、仰せそうらいき。「ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなし」と、御述懐なり。 (『蓮如上人御一代記…

つみはいかほどあるとも

加賀の願正と覚善と又四郎とに対して、信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。総じて、つみはいかほどあるとも、一念の信力にて、けしうしないたまうなり。されば、「無始已来輪…

たのむ機

仰せに、「南無というは帰命なり。帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。また、発願回向というは、たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。 (蓮如上人御一代記聞書2) 機とい…

念仏もうざるべし

勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおも…

はじめに

かつて、ブログを書いた時期があった。 その頃は電子の世界で教化をする!と息巻いていた。 だが、途中で飽きてしまい、誰にも言わず、閉じた。 それから年月が流れ、ふと、思い立つことがあり、書こう!と決めた。 途中で飽きるかもしれない。 ま、それでも…