たのむ機

仰せに、「南無というは帰命なり。帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。また、発願回向というは、たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。

蓮如上人御一代記聞書2)

 

機という言葉。

機とは、人のこと。ただの人。

 

親鸞聖人のお言葉に「時機純熟」というものがある。

阿弥陀に「御本尊」と頭が下がる時、それは我が身と時が合致すること。

頭が下がると、弥陀の救済は目前にある。

 

ところが、

その頭が中々下がらない我が身。

「どうにかしたい」「なんとかなる」とか言って、自分の思いから中々離れられない我。

そんな我が身、我を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と宣言なされた。

 

たのむ機とは、私のこと。