念仏もうざるべし
勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。
(『蓮如上人御一代記聞書』1)
ぶっちゃけて言うなら、70代のおじいちゃん達の会話。
だが、味わいを感じる。
いくつになってもお念仏申せ、と言う蓮如。
その言葉にうなづく道徳。
70過ぎて、何故それができるのか?
年をとればとるほど、自分の正しさに固執し、相手を認めない。
うなづく。その行為に費やされるエネルギー。
住職になったのはまだ20代だった。
その頃は大先輩とも言える70や80のご住職がたが大勢おいでだ。とても何かを言える感じではない。
そんな中、これまた高齢の92歳のご住職が、よく申していた。
「手ェ合わせて、なんまんだぶ申す。お前さん達、そこに何がある?金が欲しい、いいもの食いたい、小憎らしいあいつなんかいなくなれ、楽々したい。色々思い浮かぶろ?
それって、俺にもお前さんにもある欲って言うんだ。無くならねえろ?いつもあるろ?
そんな俺に気づかせてくれるのは、南無阿弥陀仏じゃねえかの。」
南無阿弥陀仏は、私を気づかせてくれる鏡。