つみはいかほどあるとも

加賀の願正と覚善と又四郎とに対して、信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。総じて、つみはいかほどあるとも、一念の信力にて、けしうしないたまうなり。されば、「無始已来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり」(浄土真要鈔)という御ことばをひきたまいて、仰せそうらいき。されば、このこころを御かけ字にあそばされて、願正にくだされけり。

蓮如上人御一代記聞書3)

 

悪いことはしてはいけない。

よく聞く話である。

 

しかし、

したくなくてもしてしまう。

こんな罪がある。

 

たとえば殺生。

その実体を殺さなくとも

心で実体を殺し、傷つける。

これもまた罪。

 

こんなことをいつまでも続けている。

これが我が身。

 

清廉潔白に見えても、

この身は汚れ、ドロドロしている。

 

御信心という言葉に

教えられるのだ。