つみはいかほどあるとも
加賀の願正と覚善と又四郎とに対して、信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。総じて、つみはいかほどあるとも、一念の信力にて、けしうしないたまうなり。されば、「無始已来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり」(浄土真要鈔)という御ことばをひきたまいて、仰せそうらいき。されば、このこころを御かけ字にあそばされて、願正にくだされけり。
(蓮如上人御一代記聞書3)
悪いことはしてはいけない。
よく聞く話である。
しかし、
したくなくてもしてしまう。
こんな罪がある。
たとえば殺生。
その実体を殺さなくとも
心で実体を殺し、傷つける。
これもまた罪。
こんなことをいつまでも続けている。
これが我が身。
清廉潔白に見えても、
この身は汚れ、ドロドロしている。
御信心という言葉に
教えられるのだ。
たのむ機
仰せに、「南無というは帰命なり。帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。また、発願回向というは、たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。
(蓮如上人御一代記聞書2)
機という言葉。
機とは、人のこと。ただの人。
親鸞聖人のお言葉に「時機純熟」というものがある。
阿弥陀に「御本尊」と頭が下がる時、それは我が身と時が合致すること。
頭が下がると、弥陀の救済は目前にある。
ところが、
その頭が中々下がらない我が身。
「どうにかしたい」「なんとかなる」とか言って、自分の思いから中々離れられない我。
そんな我が身、我を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と宣言なされた。
たのむ機とは、私のこと。
念仏もうざるべし
勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。
(『蓮如上人御一代記聞書』1)
ぶっちゃけて言うなら、70代のおじいちゃん達の会話。
だが、味わいを感じる。
いくつになってもお念仏申せ、と言う蓮如。
その言葉にうなづく道徳。
70過ぎて、何故それができるのか?
年をとればとるほど、自分の正しさに固執し、相手を認めない。
うなづく。その行為に費やされるエネルギー。
住職になったのはまだ20代だった。
その頃は大先輩とも言える70や80のご住職がたが大勢おいでだ。とても何かを言える感じではない。
そんな中、これまた高齢の92歳のご住職が、よく申していた。
「手ェ合わせて、なんまんだぶ申す。お前さん達、そこに何がある?金が欲しい、いいもの食いたい、小憎らしいあいつなんかいなくなれ、楽々したい。色々思い浮かぶろ?
それって、俺にもお前さんにもある欲って言うんだ。無くならねえろ?いつもあるろ?
そんな俺に気づかせてくれるのは、南無阿弥陀仏じゃねえかの。」
南無阿弥陀仏は、私を気づかせてくれる鏡。
はじめに
かつて、ブログを書いた時期があった。
その頃は電子の世界で教化をする!と息巻いていた。
だが、途中で飽きてしまい、誰にも言わず、閉じた。
それから年月が流れ、ふと、思い立つことがあり、書こう!と決めた。
途中で飽きるかもしれない。
ま、それでもいい。
始めるか。